スポーツ界全体を盛り上げる理学療法士でありたい(アンプティーサッカー日本代表トレーナー 増田氏)

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アンプティーサッカー日本代表トレーナーとして、メキシコで開催されたワールドカップに帯同、大阪のアンプティーサッカーチームの監督、コーチ兼トレーナーも務める。リハビリテーション病院、整形外科クリニックでの勤務を経て、現在はセレッソ大阪ユースチームのトレーナーとスポーツジムのパーソナルトレーナーとして活動している増田PT。

「スポーツに関わるPTでありたい」、その思いを持ち、走り続けてきた増田PTのキャリアについて聞いてみました。

「スポーツに関わる仕事がしたい」という思いがはじまり

―PTを目指そうと思ったきっかけを教えて下さい。

増田:小学校低学年の頃、サッカーを始めました。当時の夢は、プロサッカー選手になることでした。

しかし、何度も何度も怪我を繰り返し、能力的な限界も感じたので、小学校高学年になる頃には、サッカー選手になる夢を諦めていました・・・。

しかし、サッカー選手は無理でも、「スポーツに関わる仕事がしたい」という思いが強くなり、選手のそばで活躍出来る「トレーナーになりたい」という夢を持つようになりました。

「トレーナー」について調べていくと、チームに帯同し、トレーナーとして怪我を治す・怪我をし辛くなる身体づくりをサポートするPTの存在を知りました。そして、中学生になる頃には、「PTになる」という夢を持つようになりました。

 

―今までのキャリアについて教えて頂けますか?

増田:現在、PT8年目です。専門学校卒業後に、大阪府阪南市内のリハビリテーション病院に入職しました。

そこでは5年間、高齢者の方を中心に脳梗塞等で後遺症が残った方々のリハビリに携わり、、訪問リハビリの立ち上げも行いました。
しかし、スポーツに関わる仕事がなかなか出来なかったので、半ば夢を諦めかけていました・・・。

そんな中、「アンプティーサッカー」について知り、「スポーツに関わる仕事が出来るのではないか」と思い、スポーツトレーナーに関する勉強を始めました。

その際、このままリハビリテーション病院にいても、スポーツに関わることは少ないと思い、整形外科クリニックだと、スポーツに関わる若者と接することも出来るのではないかと思いました。
また、「自分の手で患者様を治せるような技術を身に付けよう」という目標もあったので、「自分がもっと頑張らなければ」と自分に負荷を掛けられる環境に身を置きたいと思ったので、整形外科クリニックへの転職を決意しました。

整形外科クリニックには、3年いました。
そこでは、リハビリテーション病院と違い、怪我が慢性化してしまった患者様が多く、それを治すためには、もっと自分のスキルが必要だと感じました。
また、転職した整形外科では、PTは自分を含めて2人しかいなかったので、「自分が頑張らなければ」という責任感も強く感じられる職場でした。そこでは、デイケアの立ち上げも行いました。

クリニックに勤めている期間は、通常業務のことで分からないことがあれば、昼夜問わず自ら勉強し、休日には「アンプティーサッカー」に関する研修やスポンサー集めに関わるような活動を行いました。
そのような活動を続けた結果、クリニックに勤務しながらでも、アンプティーサッカーの日本代表トレーナーとして海外の大会に帯同できるようになりました。

 

―転職活動はどのようにされたのですか?

増田:転職を決意するまで、大阪府の理学療法士協会の仕事を手伝わせて頂いていたので、何人かの方から声を掛けて頂く機会はありました。

しかし、そういった”人のつながり”で転職するのではなく、自分のやりたいことをやらせてもらえるような環境を自分で探して、スポーツに関われるような環境に身を置きたいと思っていました。
そこで、整形外科クリニックの求人にたどり着いたのです。

 

 「アンプティーサッカー日本代表」のトレーナーを経験して

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―アンプティーサッカー日本代表に帯同されたことで、増田PTの中でどのような変化がありましたか?

増田: 帯同してみて、健常者であれ、障害者であっても、一生懸命頑張っている選手を応援したいと強く思いました。

また、アンプティーサッカーはまだまだマイナースポーツであり、他のスポーツと違って、書店などにアンプティーサッカー選手専用のトレーニングのノウハウ本などがありません。

そんな環境下で、PTとして培ってきた知識を総動員して、選手のトレーニングや動作分析を行うことは大変面白いものです。

実際に、自分が杖(クラッチ)の使い方などを知らないと何も指導も出来ないので、私自身、選手と同じように杖を使って練習して、トレーニングの指導をしています。

 

 

―アンプティーサッカーと健常者サッカーでは、トレーニングの指導方法に違いはありますか?

増田:杖を使って走り続けなければならないので、全身を使う必要があります。
そのための体力や腕の筋肉、体幹、杖を使ってボールを蹴る練習などに対して、PTの立場から動作指導などをしています。

 

―アンプティーサッカーメキシコ大会に帯同されて、何か面白い体験談などがあれば、教えて頂けますか?

増田:選手と交流したり、スタッフ対抗ワールドカップも開きました。

ドイツ人やフランス人、アンゴラ人、アメリカ人と一緒にチームを組みました。「右!右!」とか言って、皆で走り回っていました。最後にはユニフォーム交換もしましたよ! (笑)

 

―ワールドカップには、実費で参加されたのですか?

増田:今まで、アンプティーサッカー日本代表は3回ワールドカップに出場しています。

1回目はアルゼンチン大会、2回目がロシア大会、3回目は私が帯同させて頂いたメキシコ大会です。

基本的にはマイナー競技なので、1 回目のアルゼンチン大会は高額な金額を実費で払ったそうです。 2 回目のロシア大会からは、スポンサーも何社か増えましたが、メキシコでも不足金は選手、スタッフは実費を出して参加しました。
その辺りが、メジャーなスポーツとの違いで苦労する点です。

 

―大阪のチームでは、トレーナーだけでなく、監督やコーチなどとしても活躍されているということは、選手をまとめる必要があると思いますが、組織運営などのご経験はありましたか?

増田:元々、自分から前に出ることが得意な性格ではなかったので、組織運営の経験は全くありませんでした。

ですが、監督としてチームを運営しなければならないので、PTの勉強以外に、経営学やリーダーの成功哲学や営業セールスの本などを読みまくっていました。そうしていくうちに、「今のチームに必要なものは何なのか」を考えるようになりました。
このような考え方は、社会に出ると必要なことだと思うので、決して無駄ではなかったと思います。

 

インプットとアウトプットの割合を変える

 

―勉強会に行かれる頻度はどれくらいでしたか?

増田:PTになった当初は、よく勉強会に行っていましたが、最近は勉強会の頻度を減らしました。
当初は勉強会に行くことで満足しており、インプット重視でした。

しかし、今では、インプットした知識をいかにアウトプットするかが重要だと考えています。

「アウトプットする」というのは、「実際に患者様に接する」ということです。

そこで、インプットとアウトプットの割合を変えました。勉強会で得た知識を自分の中で落とし込む時間を持つようにしました。その中で、悩みが出たらインプットをする、そしてアウトプットを磨くための場数を踏むサイクルを持つようにしました。

 

―パーソナルトレーナーとしても活動されてるということですが、お金をもらうことに抵抗はありましたか?

増田:当初は抵抗があったので、はじめは、トレーニングをした対価として食事をご馳走になっていました。(笑)

しかし、ある日、私がトレーナーを務めるスケートボーダーを目指すお子さんのお母様から、「金額を設定してもらった方が、こちらとしてもやりやすい。お金は信用なんだから。」という言葉を掛けて頂いて、お金は取られるものではなく、お客様に喜んで頂いた分の対価だと思えるようになりました。

それをきっかけに、お金もらうことに抵抗は無くなりました。

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ロードレースの大会で、選手のコンディショニングを行う増田PT

 

「スポーツのトレーナーはPTだ」と言われるようになりたい

―PTの職域の可能性を教えて下さい。

増田:スポーツの世界は、優秀なトレーナーを探しています。

テーピングをうまく巻けるトレーナーよりも、パフォーマンスを上げてくれるようなトレーナーを選手も必要としていると思います。

また、マイナーなスポーツの選手達にも目を向けることで、スポーツ業界全体も盛り上がり、PTの需要も増えてくると思います。

 

―今後のキャリアについて教えて頂けますか?

増田: 今年の9月にクリニックを辞めてから、タイに在住する知り合いに誘われて、1か月間、タイに渡航し、「タイホンダFC」というプロサッカーチームのトレーナーや、現地で働く日本人や日経企業の従業員の身体をみていました。

その間は、PTとしてのスキルを提供する代わりに、食費や住まいを提供してもらっていました。生活とスキルの交換ですね…。(笑)

タイのPTは、まだ日本のPTのようにリハビリの計画を立てることが習慣化されていなかったりします。
そのため、日本人のPTは仕事も丁寧ですし、タイでは習慣化されていないようなPTの仕事を教えることができるので、アジアではニーズがあると思います。

今後はどんどん海外に出ていくPTが増えていくと思います。

このタイでの経験から、広い視野を持つことが出来ましたし、自分に自信を持つことも出来ました。

こういった経験を通じて、「もっとスポーツに関わるPTになりたい」という思いを持つことが出来ました。
今後は、老若男女関無く、誰でもいきいきとスポーツ出来るようなサポートをしてきたいと思っています。

 

―最後になりますが、若者達にメッセージをお願いします。

増田: 20代は大いに悩み、苦労し、失敗して下さい。

もし、「将来、何がしたいのか分からない」と悩んでいるならば、まずは、目の前のことに一生懸命取り組んでみて下さい
「やりたいこと」、「楽しいこと」を探すのも重要ですが、目の前のことを一生懸命やってみることで、毎日が楽しくなります。
現状を変えることが出来るのは、自分次第です。また、PTになったきっかけを思い出してみるのも重要です。

最初の思いを叶えるための行動をしてみると、毎日も充実してくると思います。

 

プロフィール

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増田勇樹PT

現在、PT8年目。整形外科クリニックに勤務中に、アンプティ―サッカー日本代表トレーナーとして、メキシコワールドカップに帯同。現在は、セレッソ大阪トレーナーと、スポーツジムにてパーソナルトレーナーを務める。




日の丸を夢見る未来の理学療法士へ(パラリンピック帯同トレーナー 島氏)

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日本障がい者水泳連盟(JPSF:Japan Para-Swimming Federation)で技術委員を務め、北京、ロンドンパラリンピックに帯同した島PT。

1995年より、障がい者センターでPTとして勤務する傍ら、1997年の全国身体障がい者スポーツ大会(なみはや国体)で大阪府選手団水泳チームコーチ兼トレーナーに選出される。その後も、専門学校(教員)、医療機関、高齢者福祉施設等に勤務しつつも、健常者・障がい者の水泳チームにトレーナーとして携わり続け、2006年にJPSFの技術委員に就任。

2008年の北京、2012年のロンドンパラリンピックの日本選手団水泳チームでトレーナーを務めた島PTにインタビューしてみました。


挑戦することからすべては始まる

― 日本代表チームのジャージ、かっこいいです!どうすれば、パラリンピックに帯同できるようなPTになれるのでしょうか?

:まずは挑戦することではないでしょうか。

私は1995年にPTの国家資格を取得し、それから13年後の2008年(北京パラリンピック)に、初めて日本代表チームに帯同することができました。「どうすれば、なれるのか?」という質問についてですが、絶対になれる方法等はありませんので、「まずは挑戦あるのみ」としか答えられませんね。私が1997年の全国身体障がい者スポーツ大会(なみはや国体)で、大阪府選手団水泳チームのコーチ兼トレーナーに選出された時のお話をさせて頂きましょう。

 

1997年当時、私は経験年数3年目の駆け出しのPTでしたが、PTとしてスポーツに携わり、いつかは日の丸を背負って、日本代表の海外遠征に参加したいと考えていました。

そんな時、なみはや国体の開催に合わせて、大阪府(障がい者の水泳チーム)から、PT協会にトレーナーの公募が出たんです。経験年数が3年目と浅かったこともあり、落選するだろうとは思いつつも、まずは応募してみたんです。もちろん、応募したからには、選出されるために全力を尽くしました。正式に選出されるまでの練習会では「とにかくやりたいんだ!」という熱意を伝え、自身が提供でき得る知識と技術を猛烈にアピールしたことを今でも覚えています。

その結果、幸いにも選出頂けたことで、何事もやってみないと、結果はわからないものだな、と改めて感じましたね。

 

― なみはや国体で、大阪府のチームトレーナーに選出されるまでに、トレーナーのご経験があったのでしょうか?

:はい、PTになってからは、地域の障がい者センターに勤務していたのですが、健常者水泳のトレーナーや障がい者スポーツのサポートも並行して行っていました。

もともと、私自身が水泳部に所属していたこと、スポーツが大好きだったことから、スポーツ分野でも活躍できるPTになりたいと考えていたので、時間を作っては、トレーナー活動に参加していましたね。私自身、興味があることには、とことん熱中するタイプの性格ですので、休日がなくなることに苦痛は感じなかったです。その当時から現在まで、何度かの転職を経験しましたが、どういった職場で働こうとも、トレーナーの活動はかわらず継続してきました。

 

― 日の丸を背負うことを強く意識するようになったきっかけ等が、あったのでしょうか?

:身近な方(PT)が、2000年のシドニーパラリンピックに帯同されたことですかね。

その方とは、日々のトレーナー活動を通じて、接することが多かったのですが、身近な方が選出されたことに刺激を受けて、自分もなれるはずだ、と奮い立ちました。ただ、2004年のアテネパラリンピックまでに、自分が選出されるに至りそうになかったので、2008年のパラリンピック(北京開催)を目標にしたんです。実は、2008年の開催地に、大阪も立候補していたのですが、私は海外遠征に帯同したかったので、内心、地元の大阪が落選しろと思っていましたね。(笑)

結果的に、2008年は北京開催に決まり、私も帯同することができましたので、ひとまず目標は達成できたんです。

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2008年の北京パラリンピックに帯同した島PT

 

 

トレーナーにはアスリートの本気と向き合う覚悟が必要

― 通常(各種医療機関・施設)のPTの仕事と、トレーナーの活動には、どのような違いがあるのでしょうか?

:最も異なるのは、対象となる方のモチベーションです。

通常のPTの仕事では、全ての患者様・利用者様に「もっと良くなりたい」というモチベーションがあるとは限りませんが、トレーナーとして接するアスリートには、皆、強い欲求があります。国体やパラリンピックに出場するアスリートに至っては、尚更ですので、その心意気には感嘆ばかりです。(もちろん、モチベーションだけでなく、身体そのものが異なるため、提供する内容は異なりますが、詳細は割愛します)

 

― トレーナー活動でしか味わえないだろう魅力があれば、教えて下さい。

:試合前の独特の緊張感ですかね。

障がい者水泳のアスリートは、パラリンピックやパンパシフィック水泳といった国際大会で結果を残すために、日々練習を行っています。だから、アスリートにとって、試合は日々の集大成になりますので、試合前のコンディショニングには、独特の緊張感が流れるんです。その中で、トレーナーは、数時間後・数分後にコンマ1秒でもタイムを縮められるよう最善を尽くしますので、良い結果が伴った時の喜びは格別ですね。

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国際大会の試合前、コンディショニングを行う島PT

 

― アスリートから信頼されるトレーナーになるには、どのような意気込みが必要でしょうか?

:試合のみでなく、可能な限り練習にも参加することです。

PTの資格を持っていて、トレーナーに興味がある方は一定数いらっしゃるかと思いますが、トレーナーは生半可な気持ちで務まるものではありません。普段は病院・施設等で勤務しているからといって、試合にのみ参加していても信用は得られません。日々の練習からアスリートと接し、身体の状態を把握することが、信頼関係の構築に繋がると思います。

仮に何らかの制約で、練習に参加出来ないならば、アスリートの活動(練習)報告書を定期的に確認し、状態を把握することだってできます。アスリートは、可能な限りの時間を費やし、競技に打ち込んでいますので、トレーナーもそれ相応の意識を持たなくてはいけません。また、アスリートの身体に触れるのみでなく、動作観察もしっかりと行い、何かしらの要望があった時に、迅速に対応できるよう準備することも必要ですね。

 

 

人の何倍も努力しなくては生き残れない

― PTとして勤務しつつ、トレーナー活動にも時間を割くことは大変かと思います。普段、どのような意識でPTの仕事に取り組んでいるのでしょうか?

:勤務先の業務を、誰よりも率先して行うことですね。

トレーナー活動に参加していると、国内合宿ならば2~3日、海外遠征では10日間程度の休暇が必要になります。それらに参加するためには、まずは職場の方々から認められる存在にならなければいけません。むろん、普段の業務を怠っているようでは話になりません。堂々とトレーナー活動ができるよう、遠征に参加するならば一早く休暇申請を行い、周りに迷惑をかけぬよう、業務を終わらせておく、又は引き継ぎを行っておくことは必要でしょう。私も遠征直前には、夜遅くまで残業することが多々ありました。

 

― 現在、PTの数が急激に増加していますが、今後、若手のPT(PTの学生含む)が、生き残るには、何が必要でしょうか?

:PTは尊い仕事です。PTとして尊くあり続ける(生き残る)には、人の何倍もの努力が必要になるでしょう。

現在、PTの収入は、医療・介護保険に依存しており、その財源が圧迫され続けていますので、収入は減少傾向にあります。私は、PTは尊い仕事だと考えておりますし、決して安月給で働くような仕事にしたくありません。だからこそ、医療・介護保険の範囲外(自費)の分野でも活躍できるようになることは必要でしょうし、そうなって欲しいと考えています。

 

PTが増え続け、財源が圧縮されている現実を受け止め、その状況下で生き残るには、人の何倍も努力しなくてはいけないことをわかって貰いたいんです。私は、普段は、理学療法学科の教員として働いていますので、そういったことを学生には伝えていきたいですね。そういった立場も踏まえ、勘違いして貰いたくないのは、PTは実力がある(治すことができる)からこそ尊い仕事なのであって、単にPTの資格をもつことが尊いことではないのです。

 

― 若手のPTは具体的にどういったアクションを起こせばよいのでしょうか?

:どんどん外に出ていくことだと思います。

例えば、講習会や、トレーナー活動に参加すること一案です。少なくとも、私が若手の頃は、興味がある分野、特にスポーツ分野の勉強会には、必ず参加していました。私は新卒で入職した職場が障がい者センターでしたので、脳卒中や脳性麻痺等の疾患に関する勉強会には頻繁に参加したものです。おそらく、私と同世代のPTは、皆そうやって学び、知識と技術を高めてきたかと思いますので、職場の中だけで勉強する機会を求めている若手をみると、臆しているように感じてしまうのではないでしょうか。

自分で行動を起こして、興味があることには、どんどん飛びこんで欲しいですね。

 

 

世界で通用する理学療法士の育成

― 2016年のブラジルパラリンピックが迫ってきましたが、そちらへも帯同される予定でしょうか?

:2012年のロンドンパラリンピックで、最後の帯同にしようと決めていました。

しかし、幸いなことに、携わってきたアスリートたちから「島先生もきてくれ!」との声があがっていますので、少し前向きに検討したいです。

 

ただ、2020年の東京パラリンピックについては、観客席から応援に回りたいですね。

2015年4月からは理学療法学科の教員として、勤務しているのですが、そこでの目標が2020年の東京オリンピック・パラリンピックに帯同できるレベルの人材(PT・AT)を育成することです。日の丸を背負って、アスリートを本気でサポートしたいと考える若い人材を、世界で通用するレベルにまで育成したいと考えています。自分を信頼してついて来てくれるような若手には、自分が10年かけて身に付けた知識や技術を、5年以下で習得させてあげられる自信があります。

 

― 最後に、島先生を虜にしたパラリンピックの魅力を教えて下さい。

:世界一を争うレースに自分が関わっているという興奮です。

パラリンピックの会場に行けば、その興奮で身震いしますし、結果が出たときの達成感は何事にも代えがたいです。今後、若手にもそういった感動を味わって頂けるよう、育成に全力を注いでいきたいと思います。


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島 樹(理学療法士、日本体育協会公認アスレティックトレーナー)
一般社団法人 日本身体障がい者水泳連盟(JPSF) 技術委員
学校法人履正社 履正社医療スポーツ専門学校 講師

 

 




「資格」に依存しない働き方(合同会社シクロ 山崎氏)

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合同会社シクロ(大阪市西成区)の山崎社長。
大学卒業後より、ケアマネジャーとして勤務する傍ら、夜間制の養成校に通学し、2006年3月(当時30歳)にPTの国家試験に合格。
PT3年目の2008年6月(当時32歳)にシクロケアプランセンターを設立し、地域密着型で介護・福祉事業を展開。シクロをスタッフ100名以上が在籍する企業に成長させた。 ケアマネとPTの資格を持ち、会社経営者として活躍する山崎社長のキャリアについて、聞いてみました。


利用者様の後押しに応えた会社 それがシクロ

― ヘルパーとケアマネのご経験があるとお伺いしましたが。

山崎:はい、阪神・淡路大震災(1995年1月17日:当時18歳)をきっかけに、西宮でヘルパーのアルバイトを始めました。センター試験直後の出来事でしたので、良く覚えています。 大学入学後もヘルパーのアルバイトを続け、卒業後は介護・福祉業界の会社に、ケアマネとして就職しました。同級生の大半は、介護・福祉以外の業界で営業職の仕事に就きましたが、私は「数字」に追われるような仕事には就きたくなかったんです。

でも、就職した会社が、利益追求型の株式会社でしたので、働き出してからは「数字」に追われることが多かったですね。(笑)経営陣が数字に厳しかったんです。その一方、「数字」さえ達成していれば、自身の裁量で仕事をすすめられる環境でしたので、ケアマネとして勤務しながらも、夜間制の学校(理学療法学科)に通学することができました。

 

― PTの資格を取ってからは、どのような仕事を経験されたのですか?

山崎: PT1年目(2006年)の年に、訪問リハを立ち上げました。
病院への就職も考えたのですが、既に30歳、ケアマネ(管理職)としてある程度の収入がありましたので、新卒の待遇で働くことには少なからず抵抗があったんです。だから、ケアマネの仕事を続けながら、(ケアマネの)経験とPTの「資格」を活かせる仕事ができないかと模索しました。そこで、訪問リハに至ったわけです。そういった経緯で、クリニックの医師に訪問リハの立ち上げを提案し、1人目のスタッフとして、その全てを任せて貰いました。

振り返ると、1年目でケアマネと訪問リハを掛け持ちしていた頃が、最も収入が高かったかもしれませんね。ただ、2年目の年からは、クリニックに常勤PTが入職し、訪問リハの仕事を移管したので、長続きはしませんでしたが。(笑)

 

― なぜ、シクロを設立することになったのですか?

山崎:PT2年目(2007年)の終りに、会社が倒産したんですよ。
突然、国税局の人間が会社に押し寄せてきて…(詳細割愛)…驚愕でしたね。私含め従業員はもちろん大変だったわけですが、一番大変(被害を受ける)だったのは利用者様です。多くの利用者様が介護難民になりかねない中、自身の去就を考えつつ、利用者様の受入先も手配しなくてはいけない。そんな風に右往左往している私を、ある利用者様が後押ししてくれました。

「山崎さんにはずっと世話になってきた。あんたが独立してやれば良い。ついて行くよ。」
利用者様を支援してきた自分が、今度は利用者様に支援される立場になりました。その方を筆頭に多くの利用者様が、私を後押ししてくれたんです。

もう「やるしかない!」と覚悟を決めて、家中のお金(50万円)を掻き集めて、シクロケアプランセンターを設立しました。失敗しても、資格があれば、就職して食べてはいけるだろうと思っていたので、会社員でなくなることに恐怖はなかったですね。  

 

 

設立当初は現場の仕事力でスタッフを牽引

― シクロは、どのような事業から開始されたのですか?

山崎:まずは、ケアプランセンター(シクロケアプランセンター)、それから間もなく立ち上げたのが、訪問介護(シクロつるみばし)です。
これまでに会社員としてやってきたことを、自身の会社で行うようになった形ですね。私は経営のプロではありませんでしたが、ケアマネとして介護・福祉業界の仕事に長年携わってきたので、質の高いサービスを提供できる自信はありました。

 

― 経営者としての経験不足はどのように補ったのですか?

山崎:仕事を自分で出来そうにないこと、自分で出来そうなことに分けて、経営に取り組むようにしました。

自分で出来そうになかったことは財務関係(財務諸表作り、決算等)と労務関係(労働契約、福利厚生の整備等)です。企業には法律上順守しなくてはいけないルールが沢山あります。そういったことは、自身で一から学ぶのではなく、税理士、社労士といった専門家に任せるようにしましたね。

一方で、スタッフの採用や教育については、会社員時代に学んだことを活かしつつ、自身でも工夫して取り組むようにしました。
まず、採用で工夫したのは、身内・友達を雇わないようにしたことです。立ち上げ間もない会社に身内を誘い辛かったこともありますが、何より既に関係性が出来上がった人と、新しい関係性(経営者とスタッフ)を築くことに苦労したからです。怒るべきところで怒れなかったり、怒らなかったりすると、馴れ合いになりますし、他の(身内・友達関係以外の)スタッフから不平等に感じられてしまうだろうと考えました。

教育においては、特に会社員時代の経験が活かせましたね。まず、私からスタッフに伝えたのは、自分の食いぶちは、自分で稼がなくてはいけない、ということです。ケアプランセンター、訪問介護等の業態では、費用の大半が人件費なので、売上に対する人件費率を適正に保たないと、会社は潰れます。この考え方は、数字にうるさかった前職の経営陣から叩き込まれたものですが、筋は通っていましたので、自分の会社にも取り入れました。もちろん、専門家の意見も仰いでのことです。

 

― ケアマネとして現場の仕事も続けられたのですか?

山崎:はい、ケアマネの仕事は好きですし、当時は自分で売上を立てないと潰れてしまうくらいの規模でしたので、現場の仕事は続けましたよ。
そして何より、小規模な事業所では、社長に現場力がないとスタッフがついてきてくれませんので、背中で語るようにしましたね。「社長」だから、とか「資格」を持っているからとか、そういうことはスタッフにはどうでも良い事です。まずは、ケアマネの山崎と働きたい、そこから何かを学びたい、そう感じて貰えるように現場の仕事に取り組みました。  

 

 

新規事業の立ち上げ請負人を担った成長期

― ケアプランセンター、訪問介護の次は、どのような事業に着手されたのですか?

山崎:シクロ設立から2年目の年(2010年)に、福祉用具の販売・レンタル(テクノエイドシクロ)を開始しました。
この事業を開始した当時、西成区には利用者様の身体に合った福祉用具を選定するための知識を持った事業所は殆どなかったんです。また、自分自身もPTの「知見」を活かした事業を展開したいと考えていたので、やることに決めました。

 

― 企業を成長させるために、どのような役割を担われたのですか?

山崎:テクノエイドシクロが軌道に乗り、経営が安定し出した頃(設立3年目以降)からは、新規事業の立ち上げ請負人(?)のような役割を担いましたね。陣頭指揮を取って、新規事業を立ち上げ、軌道に乗れば、また新たに事業を立ち上げるといったような流れです。細かい仕事は信頼できる現場のスタッフに任せるようにしたので、テクノエイドシクロの立ち上げ以降も、どんどん新規事業を立ち上げてきましたね。

シクロ設立3年目(2011年)に立ち上げたのが、デイサービスプロトンです。
プロトンは、PTOTによるリハビリを提供する施設です。この事業を開始した当時、西成区にはPTOTのリハビリが受けられるデイサービスがなく、PTOTの認知度が低かったこともあり、リハビリ=柔整師等のマッサージ、くらいに認識されていたと思います。だから、PTである自分が、PTOTによる本格的なリハビリが受けられるデイサービスを作ろうと決めました。2015年9月現在では、デイサービス エシュロンも加わっています。

次は、シクロ設立7年目(2015年)に立ち上げたパルクール訪問看護ステーションです。
パルクールには、看護師のみでなく、PTOTが在籍し、訪問看護と訪問リハビリを提供しています。これは、デイサービスには来られない、又は来たくない利用者様にも看護・リハビリを提供しようとの想いで立ち上げました。

シクロでは、デイサービス、訪問看護ステーション以外にも、カフェ・飲食事業(アビタイユモン)や、障碍者(児)相談支援事務所(シクロソーシャルサポート)等も運営しているのですが、私はこれら全ての事業の立ち上げ時には、現場に入って仕事をしてきました。シクロでは、PTの「知見」を活かして、何ができるか、何がしたいかを考え、地域の役に立つ事業を展開してきたと自負しています。

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自身の職域拡大には仕事の本質を自覚することが必要

― 聞かせて下さい、PTの強みって何ですかね?

山崎:人を動かすスキルに長けていることではないでしょうか。

 

― もう少し具体的にお話しても宜しいでしょうか?

山崎:私は、PTは人の「心」を動かすスキルを備えているのではないか、と考えています。
ご存知の通り、PTが患者様・利用者様にリハビリを提供できる時間は、1日24時間、週168時間のうち、数時間程度です。だから、PTがリハビリで効果を出すには、PTが接していない時間に、患者様・利用者様にどれだけリハビリを頑張ってもらうかが重要になります。つまり、PTとしてリハビリの効果を出せる人は、患者様・利用者様の心に働きかけるスキルに長けているはずだということです。  

 

― おっしゃる通りだと思いますが、それはPT(先生)と患者様・利用者様の関係性があってこそでは、ないでしょうか?

山崎:そうですね。重要なのは、PTはそういう関係性を構築する仕事だということを自覚することです。
PTは職種柄、知識・技術を高めることが必要だとされていますが、その理由は患者様・利用者様との関係性を構築するためだとも考えられるはずです。小規模な介護・福祉業界の社長には、現場力が必要だと述べましたが、これも関係性の構築のためです。自分が患者様・利用者様ならば、良くならない治療を続けるPTの指示には従いませんよね?だから、PTは技術・知識を研磨しなくてはいけません。

多くのPTは、自分が治療家であることは自覚していても、自分が「人の心を動かす仕事」に従事していることは自覚していないように感じます。自分がどういう仕事をしているかを理解して、そこで得たスキルを他の仕事でも活用できれば、PTは「資格」を使った仕事以外でも、活躍の場を広げることができるのではないでしょうか。だから、仮にPTの仕事が嫌になった時は、自分がやってきた仕事が本質的にどういう仕事なのかを、今一度思い返して欲しいです。

 

― PTが嫌になってしまう若手が多いと聞きますが、何かメッセージはありますか?

山崎:PTが嫌になったら、他の仕事に就いてみるのも一案だと思います。 PT以外の仕事に就いて、自分の考えの甘さに気づくのか、もしかしたら他に適正がある仕事に出会えるかもしれません。PTの「資格」があれば、就職先を選ばなければ、雇ってくれるところはあるはずです。  

 

 

多くの人と接し、喜びを分かち合えるのが経営者の仕事

― 設立8期目で100名以上のスタッフが在籍しているそうですが、独立時点から会社を拡大しようと考えていたのですか?

山崎:スタッフが30人くらいになった時点で、安定的に有給休暇、昇給が見込める会社にしたいと考えるようになり、拡大しようと決めました。

まずは、休暇について。
小規模な介護・福祉業界の事業所は、人材が不足している中、何とか仕事を回している状態なので、スタッフが有給休暇を取ることが難しいんです。あるスタッフが休めば、その代わりに他のスタッフが出勤しなくてはなりません。だから、休暇制度を整備するためには、会社の規模を大きくする必要があります。

次は、昇給について。
これは大卒の新卒者が入社したことをきっかけに、真剣に考えたことです。若いスタッフがシクロに入社して、結婚して、住宅を購入して、という人生の大きな流れを見据えた時に、少なくとも住宅ローンが組み易くなる年収(400万円)は渡せるようにしなくてはいけないなと。そのためには、定期的に昇給させられる会社作りをしなくてはいけない、つまるところ、スタッフの給与に割ける売上(財源)を増やすことが必要なので、会社の規模を大きくしようと。

 

― 会社を経営していて大変だったことを教えて下さい。

山崎:「数字」に追われることですかね。
売上高が400万円程度(損益分岐点)だった頃が、特に厳しかったです。利用者様のキャンセルが続くと、売上高の5パーセント程度が減少することはザラにあるんです。5パーセント=20万円なので、1人分の給料が払えるか、払えないかの瀬戸際になるわけですよ。だから、数字に追われることは多かったですね。ただ、これは規模が大きくなると、半ば諦めがつくようになるんです。20万円なら個人の力で何とかできますが、売上高4,000万円で5パーセントとなると、200万円です。社長一人が頑張っても、どうにかなる数字ではありませんよね。

 

― 経営者としての一番の楽しみは何ですか?

山崎:人(スタッフ、利用者様)が増えていくことが楽しくてなりません。
おそらく会社をやっていなければ、今ほど多くの人と接する機会はなかったと思います。人が増えれば、新しい事業の可能性も広がりますので、それだけでもワクワクしますよ。

ただ、規模が大きくなるにつれて、スタッフと膝を突き合わせて話す機会が少なくなりましたので、今は毎年1回は、必ず個人面談を実施するようにしています。そこで将来のキャリア設計や給料についても話します。 あとは、飲み会。シクロの飲み会は、敷居がない会場で開催するようにしています。そこで、全員にビールを注ぎに回って話をするのが私の恒例行事になりましたね。

 

― シクロの今後について教えて下さい。

山崎:これまでの事業は、私起案の事業が殆どなので、今後はスタッフ起案の事業を軌道に乗せていきたいと考えています。
その一つとして、すすめているプロジェクトが、養護学校等の卒業生に対する就労支援です。これは、障碍を持った方が、実際に働くことができる農園を作ろうというもので、シクロと他の福祉業界の企業がコラボレーションして、取り組んでいます。まだ準備段階なので、詳細はお伝え致しかねますが、大阪近辺で農園を運営する予定です。

シクロでは、スタッフの起案に対して、一定数のスタッフから賛同が得られれば、本格的に事業化を推進しています。これから、シクロを通じて、多くの人に出会い、沢山の仕事を成功させ、喜びを分かち合うことが楽しみでなりません。


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山崎 昌宣 合同会社シクロ代表
1976年10月生まれ、PT9年目。 阪神・淡路大震災(1995年1月)をきっかけに西宮でヘルパーのアルバイトを開始し、大学卒業(2000年3月)後は、介護・福祉業界の企業で、ケアマネ業務に従事。ケアマネとして働く傍ら、養成校(夜間制)にも通学し、2006年3月にPT国家試験に合格。PT3年目の年(2008年6月)に勤務先が倒産し、合同会社シクロを設立。8期目を迎えた2015年9月現在、従業員100名以上が在籍する会社のトップとして日々奮闘中。

 

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合同会社シクロ 
シクロではスタッフを随時募集中です。
山崎社長に話を聞きたい方、シクロで働きたい方、キャリアPT又はシクロホームページの「お問い合わせ」欄よりご連絡下さい! 尚、シクロでは毎月第二金曜日18時30分より、社内外のスタッフを交えた自由参加型の研修会がございます。

 




スタートは毎月2万円の貯金箱(リハガク 澤田氏・久貝氏)

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合同会社Laugh(リハガク)の澤田代表(右)と久貝副代表(左)。
大阪、兵庫、岡山の3拠点で、OTのセミナーを運営する2人は、まだ5年目の療法士。 勤務していた病院を3年目半ばで退職し、リハガクを立ち上げられた2人に、独立エピソードを聞いてみました。


リハガクの原点は「何かやりたい」という素直な気持ち

―― お2人、仲良いですね?

澤田:久貝とは大学の同級生ですので、付き合いは9年目くらいになります。 学生時代にパチンコや麻雀で盛り上がった時、追試を逃れるために必死で勉強した時も一緒にいました。学校の成績も同じ位でしたし、周りの人たちを笑わせることが好きといった点も似ていたので、気が合ったんだと思います。

久貝:でも、キャラクターはかぶっていませんよ。
澤田はアイデアマン、見た目は根暗ですが、メンバーを引っ張ってくれるリーダーです。 僕は体育会系(元野球部)に見られますが、堅実派なんです。澤田は色んなアイデアを沢山出すんですが、僕はそれを潰す役割です。(笑)そうやって、もう1人の副代表(濱村)と、リハガクを盛り上げてきました。濱村は岡山が拠点なので、今日はいませんが、彼も同級生です。

 

―― 卒業後も同じ病院で働かれていたのですか?

澤田:和歌山の回復期の病院に勤めていました。 回復期は、患者様の機能回復が顕著ですので、やりがいがありましたよ。患者様にリハビリを提供して、良くなってもらい、笑顔で自宅に帰られる姿を見るのは、本当に楽しかったです。僕は、朝が弱いので、家から近い原付で10分の病院を選んだのですが。(笑)

久貝:僕は、大阪の急性期の病院に勤めました。 大学時代の臨床実習が、脳神経外科で有名な某病院だったんですが、そこで急性期のリハビリに魅せられたんです。脳卒中を患った患者様が、どんどん良くなる現場を見て、自分もそんな職場で活躍したいと感じました。実は、臨床実習までは、療法士になることに、あまり熱意はなかったんですが、実習を通じて、熱意が漲ってきました。
初めのキャリアを希望通り、急性期の病院に勤めることができて、本当に良かったです。

 

―― 順風満帆な病院勤務に聞こえますが、なぜ病院を辞めて、起業されたのですか?

澤田:勢いです。(笑)
病院勤務の2年目の冬くらいに「何かやりたい」っておもったんです。その想いを久貝に話すと、久貝も同じ気持ちでした。また、2人に共通していたのは、「療法士として培った力(知識や技術)を、病院の外でも発揮できるんじゃないか」と考えていたことです。2人とも、学んだことをもっと色んな分野で活かしたい想いに溢れていたんです。

久貝:で、2人でやるよりも、3人の方が楽しいと思って、濱村も誘ったんです。さいわい、濱村も「何かやりたい」という気持ちがあったので、とりあえずは、3人で「何かやる」ことに決めました。  

 

 

毎月2万円の貯金箱で集めた資本金

―― 独立資金はどのようにして集めたのですか?

澤田:毎月1回、必ず3人で集まってそこで集金です。(笑)
3人の貯金箱を用意して、1人2万円ずつを貯めていきました。その集まりでは、「何をやるか」と「いつやるか」についても、話し合いました。僕は、病院で5年は勉強してからスタートすれば良いと思っていたのですが、普段は堅実派の久貝に「5年後じゃなくて、今やればいい」と突っ込まれたんです。久貝はやる時はやるし、言う事は言う奴なんです。(笑)
病院で過ごす3年弱と、独立して過ごす時間を想像すると、独立してモガきながらでもスタートすれば楽しそうだと思いました。ボーナス月は1人10万円を貯金したので、1年経たずに120万円が溜まりました。そのお金を資本金として、合同会社Laughを設立したんです。

 

―― 事業内容は決まっていたのですか?

澤田:はい。会社を設立する段階で、リハガク(セミナー事業)に決めていました。 事業内容が決まっていないと、具体的なアクションが取れないまま、コスト(家賃、人件費、活動費 等)だけが発生し続けます。それだと、資金ショートが迫り、焦って、考えることに集中できなくなってしまいます。

久貝:澤田はアイデアマンなので、色んなアイデアが出ましたよ。
例えば、モノ作りでは、骨折予防パンツの製作。あとは、介護用のオムツ、既存のオムツでは脱糞した側もそれをケアする側も、気持ち良くないので、うんちを包み込むような製品を作れば良いと言って、色々調査していました。
サービス業も考えていました。単身高齢者世帯向けの安否確認電話サービスや、鍵っ子の見守りサービス、澤田はOTが子守りをすることで、子供の発達を支援できるはずだと言っていました。

 

―― 色々アイデアがあったようですが、どうやってリハガクに決めたのですか?

澤田:決めるための観点を洗い出し、3人全員で合意を取りました。

  • 社会に貢献できること
  • 模範できるビジネスモデルがあること
  • 参入障壁が低いこと(資本金の規制なし、銀行借入・特殊スキルが必要ない)

この観点で絞り込み、リハガクに決めました。「何かやりたい」という気持ちがスタートなので、その何かを「考える」よりも、何かを「やる」ために動く方が、有意義な時間の使い方だと思ったんです。

久貝:リハガクは、病院勤務時代に感じた疑問がアイデアの源泉になっています。
当時、療法士の勉強会で目立っているのは、PTばかりだったんです。僕らは、沢山の勉強会に参加してきましたが、講師はPTばかり。そして、受講者も殆どがPT。 PTとOTの分野を区切るわけではありませんが、PTの講師が高次脳機能障害やADLについても話していたんです。日常生活動作は、OTの専門分野だと思いますし、そこはOTの講師にやって貰いたかった。「もっとOT頑張ろうよ、盛り上げようよ」と率直に感じた気持ちが、今のリハガクを形作っています。

澤田:戦略的なことも考えました。セミナー事業は、乱立していたので、差別化を考えました。
講師はOT、受講者もOTのセミナーはありませんでしたので、それが出来れば、差別化できると。色々苦労はしましたが、その甲斐あって、リハガクのセミナーは講師のほとんどがOT、参加者の70%以上はOTです。 「OTを盛り上げよう」という気持ちからブレずに、やってきたからこその結果だと思います。

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徹底的にこだわったのは講師の質

―― リハガクの運営で一番大変だったことは何ですか?

久貝:講師の選定です。
リハガクのみでなく、セミナーの参加費用は、1万円前後と決して安くはありません。だからこそ、リハガクは、かかる費用以上の価値を提供しようと、人間力、知識共に秀でた一流の方のみを講師として選定しています。単に知名度が高い(集客力がある)とか、講師をやりたい先生に頼んでいるわけではありませんので、講師の選定と登壇までの交渉には時間と労力が一番かかります。
リハガクでは、OTが勉強したいテーマを調査し、そのテーマに沿って、講師を選定していますので、場合によっては、都度、講師を選定し続けることもあります。

 

―― リハガクは拡大していく予定ですか?

澤田:はい。来年からセミナーを開催する拠点を増やします。
名古屋や関東を中心に、九州でも開催したいと考えています。セミナーは、同じ地域でのみ開催しても、参加頂ける方が限られてきますし、何より、セミナーの質には自信がありますので、良いものをより多くの方に届けたいとの想いです。なので、受講者の方々の満足度が高かったセミナーは、他の地域でも積極的に開催していく予定です。

久貝:リハガクのメンバーは、3人(澤田:発想力 久貝:行動力 濱村:調整力)とも得意分野が異なるので、それぞれの長所を活かして、次の展開を考えています。個人的には、次の展開も大切ですが、まずは、1つの会場を満員にして、受講者の方の満足度を高めることが第一だとも考えています。もちろん澤田含めリハガクメンバー全員で、決めたことなので、拠点数の拡大には挑戦しますが。    

 

 

療法士はもっと広い世界で活躍できる

―― 新規事業は行わないのですか?

澤田:直近では考えていませんが、「何かやりたい」と「療法士として培った力を幅広い分野で活かしたい」という気持ちでスタートしましたので、将来的には、療法士の力を最大限に活かせるような事業を興したいと考えています。 多くの療法士がその事業に魅力を感じ、自身も関わりたいと感じるような事業です。ただ、これは、抽象的ですし、3人がバラバラな考えを持っているので、メンバー間で話し合いながら、ブレずにやっていきたいと考えています。

久貝:自分たちの身の丈に合った事業がいいですね。(笑)

澤田:僕は、もっと療法士の力で社会問題を解決できると考えています。
例えば、企業でのパワハラ、障害者の就業斡旋、ホームレスなどの社会問題です。僕は、刑務所で服役者の方に対して、作業療法を行っているのですが、それも療法士の力で社会問題を解決できるだろうことの一例です。療法士は「問題に対して、評価を行い、原因を特定する」というアプローチに長けていますので、他の社会問題に対しても、同様のアプローチで解決できると思うんです。

 

―― 今後、療法士はどんな分野で活躍できるでしょうか?

久貝:予防(健康)の分野が有力だと思います。 この分野では、似たような職種が乱立し、その殆どがカラダのプロだと自負しています。ですが、僕自身は療法士として、知識と技術を磨いてきた自負があるので、その分野でもっと活躍できると考えています。 ゴッドハンドを目指すのではなく、療法士の中の当たり前の知識や技術を、的確に伝えることができれば、それは予防の分野で十分に価値があるはずです。Laughではその取組として、「らふ整体室」もオープンしました。まだ開始から間もないので、課題は山積みですが、一つ一つクリアしていきたいです。    

 

 

療法士をもっと夢のある仕事に

―― 若いセラピストが増え、色々悩む方も多くなると思いますが、何かメッセージはありますか?

久貝:最近は、療法士の仕事がロボットに代替されるのではないか!?みたいな噂までありますよね。(笑)
仮に現職で疲れてしまったなら、働き方・場所を変えてみるのは一つだと思います。療法士=病院勤務という既成概念に囚われず、病院が合っていないと感じたならば、他に活躍できる場所を探してみればいい。 行動してみると、療法士の仕事以外にも求人は沢山ありますので、療法士としてのキャリアに見切りをつけて、別の職種に転職することもできるはずです。

澤田:療法士は、職業柄、悪いところを見つけるのが得意ですからね。(笑)
職場の人間関係とか、いやな上司とか、上がらない給料とか。働いていると、色々嫌なことは見えてきますが、療法士の仕事ほど、「ありがとう」と言って頂ける仕事はなかなかありません。人対人のコミュニケーションの中で楽しいことも沢山ある仕事なので、良い一面に目を向けてほしいです。 若いうちは、わからないことだらけですが、想像力は豊かです。先輩からリハビリの方法を押し付けてられて、その通りに、仕事をしていても楽しくありません。自分で考えて、仕事をすれば、仕事はもっと面白くなるはずです。
僕らは、療法士をもっと夢のある仕事にできるよう、頑張ります。


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澤田 浩基 合同会社Laugh代表
2011年 大阪河﨑リハビリテーション大学 卒業
2011年 病院(回復期) 入職
2014年 合同会社Laugh(リハガク) 設立

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久貝 担矢 合同会社Laugh副代表
2011年 大阪河﨑リハビリテーション大学 卒業
2011年 病院(急性期) 入職
2014年 合同会社Laugh(リハガク) 設立

 

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合同会社Laughは、「リハガク」として、セラピスト向けの講習会・勉強会の企画、運営を行う傍ら、「らふ整体室」を運営する団体。 リハガクでは、講師のほとんどがOT、参加者も70%以上がOTで、OT業界を盛り上げることに尽力しつつ、一人でも多くの療法士が、確かな技術と知識を駆使して、人々に笑いのある豊かな人生を送ってもらうための社会作りに貢献しています。

  • リハガク:http://reha-gaku.com/
  • らふ整体室:http://laugh3.com/feature.html

 




若手が盛り上げるセラピスト業界(グッポコンディショニングルーム 岡田氏)

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グッポコンディショニングルーム(整体×ピラティス×エステの複合施設)、ベクストエスジー(勉強会団体)、平成セラピスト(平成生まれのセラピストのコミュニティ)で代表を務める岡田PT。総合病院、大学職員、クリニックの立ち上げを経て、PT4年目で独立。 目指すのは「教育者」であり、「治療家」であり続けること。掲げてきた目標を着実に達成してきた岡田PTのキャリアについて聞いてみました。


動き出したのはPT3年目

―― これまでのキャリアについて教えて頂けますか?

岡田:平成23年4月(専門学校卒業後)に、新卒として大阪市内の総合病院に入職しました。
入職当時から、人に教えることが好きで、「教育者」になりたいと考えていましたので、入職2年目から通信制の大学に通い、理学療法以外の教養についても学びました。

入職後2年半経った頃が一度目の転機です。平成25年春頃(入職3年目)に、専門学校時代の恩師からクリニック(大学付属)の立ち上げのお誘いを受け、「病院よりも教育者になる道に近づくのでは」と考え、転職を決意しました。そこで、同年8月から、クリニックの立ち上げに携わる傍ら、大学職員としても勤務し、PT以外の仕事も経験しました。

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―― グッポコンディショニングルーム(以下「グッポ」)、ベクストエスジー(以下「ベクスト」)、平成セラピスト(以下「ヘイセラ」)の活動を始められた時期と、その想いを教えて頂けますか?

岡田:まずは、平成25年10月にベクストを立ち上げました。
ベクストでは、現役セラピスト向けの勉強会を運営してきましたが、設立当初は事業というよりも、教えることが好きだったことと、本気でアウトプットできる場を作りたいという想いで団体を設立しました。インプットした知識や技術を自分の中だけに留めておいても仕方ありませんし、アウトプットを通じて知識や技術をより研磨できると考えたからです。

翌年の5月頃がヘイセラです。
ヘイセラは、フェイスブックグループからスタートした、平成生まれの現役PTOTST・学生セラピストが集うコミュニティです。コンセプトはシンプルで「平成生まれのセラピストで盛り上げていこう」というもので、オンライン上での症例相談や、学生からの質疑応答、勉強会情報の共有等に加え、オンライン外でも定期的な集まり(交流会、勉強会等)を開催してきました。

そして、今年4月がグッポです。
グッポは、整体にピラティススタジオとエステを併設した腰痛・股関節痛専門院です。これまでにセラピストとして培った力を活かして、出身地である狭山市(大阪府)に貢献したいという想いで開院しました。また、「教育者」であっても、「治療家」でありたいと考えていたこと、以前から自分の店舗を持ちたかったことも開院の動機付けとなりました。

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~グッポコンディショニングルームの受付~  

 

目標は書き留めて、可視化する

―― 大学に通学されていたようですので、一般的なセラピストと比較して、独立の準備に割ける時間は限られていたと思います。 独立(4年目)までの時間の使い方(物事の取り組み方)で、意識したことはありますか?

岡田:目標(理想の自分)を紙に書き出すことです。
僕の目標は、良き「教育者」になることと、同時に「治療家」であり続けることです。この目標に時間軸(いつまでに?)を設定し、そして「どうやってなる?」のかを書き出しました。そうすると、そのためのアクションになるだろう情報が自然と入ってくるようになりました。目標やアクションプランは、当初はノートに記録していましたが、今はスマホで管理する等、常に目に入るようにしています。この方法は、知っている方は多いかもしれませんが、やるとやらないでは、大違いだと思います。

次は、アクションに対して目的を設定することです。
僕のアクションは、コミュニケーションや技術(手技)系の講習会に参加すること、普段は行かないような高級ホテルやレストランに足を運ぶこと等でしたが、そこで「何を獲るのか」を強烈に意識するようにしました。例えば、高級ホテルでは、自分がお客様になって「何をされたら嬉しいか」を探る目的で、スタッフの接遇に触れるようにしました。すると、「名前を呼ばれると嬉しい」等知ってはいるけれども、体感して初めて大切さを再認識できるような気付きがあるものです。

―― 勤務時間以外で時間やお金を投資されていたのですね。勤務時間内で工夫されたことはありますか?

岡田:知識や技術を高めることはもちろん、傾聴(接遇スキルの一つ)に力を入れていました。
自分で店舗を持つことが念頭にありましたので、そこで通用する接遇を実践するよう心掛けてのことです。病院等の保険診療では患者様がいて、自ずとリピートしてくれます。一方、整体等の保険外の分野ではお客様を呼び込み、一歩踏み込んでお客様の課題をくみ取り、サービスを提供することが重要になります。そういった状況を想定して、病院勤務の時から患者様の話を傾聴する、そして課題を深堀するようにしてきました。丁寧な言葉遣い、接し方をすることは、人生の先輩に当たる患者様に対してなので、もちろんのことです。

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様々な職場で幅広い視野を

―― 病院、大学、クリニック以外にも、デイサービスでの非常勤も経験されたと聞いております。様々な職場で働いた経験は、今に活きていますか?

岡田:はい、視野が広がりました。
一つの組織に属していると、その組織では重宝されるようになりますが、組織運営や評価、治療の方法が凝り固まってしまいます。僕は、非常勤も含め、様々な職場で仕事をする機会に恵まれましたので、幅広い組織、先輩方の考え方に触れることができました。そういった点で、視野が広がったと思います。

―― アルバイト(非常勤)を禁止している病院が多いですが、ご意見等はありますか?

岡田:アルバイトは、積極的にOKにして良いと思います。
特に若いセラピストは、多様な人と関わることで、視野が広がり、豊かな人間性を育むことができると思います。病院側の論理(囲い込み、退職防止辞)は理解できますが、個々の人材育成という観点では、病院側はアルバイトを公認すべきではないでしょうか。それが、病院の活性にも繋がるとも考えます。

―― ところで、「教育者になりたかった」とのことでしたが、教員になることは考えられなかったのですか?

岡田:もちろん考えましたが、大学職員として教員の立場に近づくことで、教員は自分が理想とする「教育者」とは違うな、と感じました。 誤解を招くかもですが、大学教員(教授、准教授)は、「教育」よりも「研究」が色濃いので(大学によりますが)、理想とする教員像とは違うなと。それで、自身が理想とする教育を体現しようと、ベクスト(勉強会団体)を立ち上げたという経緯もあります。    

 

 

目標は過去を振り返れば見えてくる

―― 今後は、どのような事業展開(グッポ、ベクスト、ヘイセラ)を考えているのですか?

岡田:地に足を付けて、今ある活動をしっかり運営することです。
グッポも、ベクストも事業として回り出していますので、それをしっかり回すことが大切です。唯一、規模の拡大を考えているのは、ヘイセラです。

平成生まれのセラピスト(PT)は毎年10,000人規模で輩出されますので、セラピストの大半は平成生まれになっていきます。個人的な見解ですが、若手(平成生まれ)は、「疑問・目的意識」が少ないように感じます。例えば、勉強会に参加する理由を理解しないで勉強会に参加する、勉強すらしない思考停止のセラピスト、と表現した方がわかりやすいかもしれません。つまり、勉強すべき理由を理解しようとしない、又は理解しないままに勉強する若手が多いということです。

僕は、そういう若手が増えてしまうと、業界全体でセラピストの治療の質が下がってしまうだろうと危惧しています。だからこそ、若手を盛り上げる必要がある。そのための僕のアクションが、ヘイセラであって、だからこそ、ヘイセラは、全国的なコミュニティに拡大する必要があると考えています。このコミュニティでは、悩む若手の問題解決と、若手セラピストの夢の応援と支援、若手講師の育成を図りたいと考えています。

―― ヘイセラにはどんな人に入って貰いたいですか?

岡田:成長意欲が高い人はもちろん、セラピストとして働き続けることに迷いのある方には、是非入って頂きたいです。コミュニティ内で、そういった方たちの悩みに寄り添い、一つ一つ解決してくことが、業界の発展に繋がるとも思います。

―― 最後に聞かせて下さい。目標がわからない、又は目標がない若手もいると思いますが、何かありますか?

岡田:目標がわからないならば、過去の夢や理想の自分を思い返して貰うことを推奨しています。
過去を掘り下げていくと、目標を忘れていただけで、やりたかったことが、ふと出てくることがあります。目標があれば、行動に目的が生じ、毎日をイキイキと過ごすことができると思います。若手で目標を見失ってしまった方は、目標を見つけて、セラピストという素晴らしい仕事を楽しんでもらいたいです。若手でセラピスト業界を盛り上げていきましょう!


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岡田 直樹 グッポコンディショニングルーム、ベクストエスジー、平成セラピスト代表

グッポコンディショニングルームは、大阪狭山市の金剛駅から徒歩2分のピラティススタジオ、エステを併設した腰痛・股関節痛専門院。 ハワイでエステを学んだ美容専門スタッフも常駐し、予防、美容分野のサービスを提供している。

 




「リハビリ維新」を志す理学療法士(Assist 和田氏)

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ASSISTの代表として関西を中心に活躍する和田PT。「リハビリ維新」のスローガンを掲げ、近年にわかに注目されつつある自費リハビリ(介護・医療保険を利用しないリハビリ)の提供と、若手セラピストのための勉強会を運営する、和田PTにインタビューしてみました。  


リガクリョーホーシ・・・?

―― それではまず、和田先生が理学療法士になろうと思ったきっかけを教えていただけますか?

和田:小学校から高校までサッカー部に所属していたんで、何かサッカーに係ることができる仕事がしたいなぁー・・・と考え、はじめはトレーナーとか、そういう類の仕事を考えていました。そんな風に漠然と将来のことを考えていると、母親から「理学療法士はどう?」と言われ、「リガクリョーホーシ・・・?」という感じでしたが、言われるままに養成校に入学しました。当時(高校生時代)は、理学療法士が何なのかも、よく理解していなかったんです・・・(笑)

 

―― そーなんですね!(あんまり、考えてなかったんだ・・・)入学してから、理学療法士になることに迷いはなかったんですか?

和田:最初の1年目の実習(病院)で、臨床の現場を体験し、「理学療法って面白いな!」って素直に感じたんです。 それからは「サッカーに係りたい」とか「トレーナーになりたい」とか、そういうことは考えなくなりました。理学療法が面白かったので、それに打ち込んだって感じです。

 

―― なるほど、ちなみに実習先はどんな病院だったんですか?

和田:維持期・慢性期・終末期の患者様にリハビリを提供する一般的な病院です。スポーツとか、そういう分野の病院だったわけではありません。  

 

 

教科書片手の新米時代

―― キャリアの第一歩目、就職先はどのように選ばれたんですか?

和田:1年目の実習先(病院)に新卒として入職しました。3年目の前期実習もそちらでお世話になっていたこともあり、実習直後にお誘いを受けたんです。養成校の成績は下から数えた方が早かったのに、就職は同期で1番に決まったんです(笑)。特に他の病院の施設見学等にも参加せず、その病院に決めました。

 

―― 1社のみ・・・決断力ありますね!(私なら何社か見てから、決めますけどね・・・)。さて、理学療法士になってからは、どうやって、技術や知識を習得されたのですか?

和田:”教科書”をひたすら読み返していました。

 

―― っえ、”教科書”ですか!?(Assistで勉強会を運営してるのに、勉強会には行ってなかったんだ・・・)

和田:勉強会に行くほどの知識も技術も、そして度胸もなかったんです。だから、とにかく教科書を使ったんです。臨床でわからないことがあれば、教科書を読み返し、自分なりに治療の方針を立てて、定期的に病院にきてくれる恩師に、数日分をまとめてドカンっ!(笑)と教えを請いました。それを3年くらい繰り返していると、基礎が身についてきた実感が持てるようになりました。  

 

 

独立への想い

―― 教科書は意外でしたね!(見た目は威圧感あるのに、案外、基本に忠実なんだ・・・) では、そろそろ独立のきっかけについて聞かせてください。いつ頃から独立を考えていたんですか

和田:裕福な家庭で育ったわけではなかったので、学生時代から起業して、裕福になりたいとは考えていました。実際に行動に移したのは、就職して3年目を迎えようとする頃です。3年目くらいになると、一般の理学療法士の収入の上限もみえてきましたし、知識と技術を高めても、収入に反映され辛い業界構造になっていることにも気付きました。そこで努力して積み上げてきたものを独立という形で結果に変えようって決めたんです。

理学療法士 和田

 

―― なるほど、独立することへの周囲の反応はどうでしたか?

和田:理学療法士が独立して、成功しているケースは稀ですので、周囲から批判的な意見も多々頂戴しました。それでも、色々な経営者の書籍を読んだり、実際にお話を聞きにいったりと着々と準備を進めていると、自然に応援してくれる方々が現れてきました。特に、応援してくれた後輩たちの存在は、独立への大きな後押しになりました。  

 

 

Assist始動!!!

―― Assistとしての活動は、いつ頃から始められたんですか?

和田:具体的に動き出したのは、就職してから3年目になる頃です。病院に勤務しながら、空いた時間に企業向けの産業リハ(企業の福利厚生の一環に理学療法士のサービスを取り入れるもの)やデイサービス向けの自費リハビリの営業活動を行いました。

でも、最初は思うような成果が得られず、お断りを受けることが殆どでした。そこからは、ひたすら地道な営業活動を続け、口コミや紹介を受けていくことで、ある程度の利用者様を獲得できました。あれから約2年半、試行錯誤を繰り返し、Assistでは利用者様に質の高い自費リハビリを提供することを続けています。 ]

 

―― 勉強会は、いつ頃から始められたんですか?

和田:自費リハビリが軌道に乗り出した1年くらい後(2013年10月頃)です。

当時、病院の後輩と接している中で、患者様を治すための知識や技術が十分でなく、勉強する機会も不足している若手が一定数いることに気付きました。 私自身、病院の後輩には個人的に勉強会を開催し、指導に当たっていましたんで、若手向けの勉強会の必要性は痛感していました。そこで、後輩以外の多くの若手に対しても勉強会を開催することに決めたんです。Assistの勉強会、本格始動です。  

 

 

とことん基礎を突き詰めた勉強会

―― 世間では数多くの勉強会がありますが、Assistの勉強会の特徴を教えて下さい。

和田:Assistの勉強会は若手のセラピストを対象にしており、とことん基礎を学び直し、臨床に活かすことを目的としています。

勉強会をスタートした当時、新人を対象とした「基礎」の勉強会は殆どありませんでした。また「基礎」を売りにする勉強会はあっても、それらは講義を行う熟練の講師が「基礎」として捉えているにすぎない内容でした。

例えば、「基礎」なのに、内臓治療の話や、頭蓋骨の動かし方の話が出てくるわけです。どう考えても「基礎」じゃないですよね(笑)。私には、既存のプログラムに「若手向け」だとか「基礎」といった売り文句を後付けしただけに思えたんです。 だから、Assistは、若手にとって本当に必要とされている「基礎」を習得できる勉強会に、とことんこだわっています。

 

―― セラピストの人口が年々増え続けている今、「基礎」を学び直す勉強会は、必要だと思います。Assistの勉強会には、具体的にどのような工夫があるのですか?

和田:講師目線の「基礎」ではなく、若手にとっての「基礎」となるように2つの工夫があります。

まず1つ目は教材です。 Assistの勉強会の教材は、学生時代の教科書をベースにしています。 現に私も、とことん教科書を見直して知識と技術を高めてきました。 教科書をベースにした学習によって、臨床の現場でのパフォーマンスを高めることができると考えています。

2つ目は講師です。 Assistの講師は、全員が臨床家、且つ中堅のセラピストです。 受講者が若手のセラピストなので、中堅のセラピストが若手の気持ちを一番汲み取ることができると思います。 研究職や教授が講師だと、若手セラピストとの距離が遠すぎるんですよ。  

 

 

リハビリ維新 目指すは全国展開

―― 今後の和田先生の抱負とAssistの展望を教えて下さい。

和田:まずAssistは私を含め、数人のセラピストが本業(病院勤務等)と並行して運営してきた組織です。 でも、これからは、私は今年の8月末で病院を退職し、Assistの活動に専念します。

Assistの代表として私がやらないといけないことは、私を応援してくれるスタッフがAssistを通じて少しでも豊かに、そしてセラピストとしての可能性や達成感を感じることができる事業を成功させることです。

 

―― 具体的な事業の目標等はあるのですか?

和田:自費リハビリ、勉強会のどちらも全国展開を目指しています。

ですので、今いるスタッフはもちろんのこと、これからAssistを共に担っていく沢山の仲間が必要です。できることならば、全国展開の目標に向けて、Assistのコンセプトである「リハビリ維新」に共感頂けるような、野心をもった若手と一緒にAssistを盛り上げていきたいです。将来的に自費リハビリや勉強会が成功すれば、その実績と経験を持って、大きな夢を持った若手セラピストの独立を支援するような事業にも着手したいと考えています。  

 

 

理学療法士ほど感謝される、素晴らしい仕事はない

―― 和田先生は、多くのセラピストが羨むくらい精力的に活動されていると思います、一方で3年経たずして離職するセラピストもいます。そういった方々に対してメッセージをいただけますか?

和田:人それぞれで環境も異なりますし、辞める理由も様々でしょうが、私は思うんです。

数ある職業でも、理学療法士ほど人から感謝して頂ける仕事は少ないんじゃないかって! そういった意味で、こんなにすばらしい職業は、なかなかないと思います。だから、辞める前にもう一度、真剣に仕事に取り組んで欲しいです。 離職する(考える)前に、とことん努力し、知識と技術を身に付け、自分が満足のいく治療を行えば、自然と仕事は楽しくなるはずです。

 

―― では、Assistを始めたからこそ味わえたことはありますか。

和田:たくさんあります! 30歳前後にもなって、「よっしゃー!」と雄叫びを上げて、ガッツポーズをするようなことって、なかなかありませんよね!? 病院勤めの時にはなかなかそのような機会はありませんでしたが、Assistを始めてからは、それの連続です。

自分たちが産み落とす時の達成感は何にも代えがたいです。

かつ、それが仲間と生み出した成果であれば、なおさらです。

周りのスタッフがいるからこそ、起業家は強くなれると思います。

そして情緒不安定になるくらい苦しい、楽しい、人のことを愛せるようになりました。

人に対しての感情がすごく豊かになる。 仲間と何かを共有するという体験が今までになかったという感情であり、それが楽しみですね。


理学療法士の和田

和田 峻介 Assist 代表
2008年 関西医科専門学校(AST) 卒業
2008年 病院(維持期・慢性期・終末期)のリハビリテーション科 入職
2012年 Assistの設立 2015年 病院を退職し、現在Assistとして活躍中

 

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Assistは、「リハビリ維新」をテーマに、自費リハビリと勉強会の運営を行う団体。自費リハビリ事業では、サービスの品質の高さを武器に、依頼が急増中。勉強会事業では、若手セラピストが「基礎」を徹底的に学び直すことができるプログラムを提供しており、多くのセラピストの知識・技術の向上に貢献している。

  • Assist:http://www.assist-oosaka.com

編集後記(インタビューアー野坂)

「何となく生きている、でも内には何かを秘めている。でも行動が伴わない、最低限の行動もできない、他人のことを冷めてみている。」和田先生は、現代、そんな若者(30歳以下)が多いとように感じるとおっしゃっていました。同意です。それは、悪いことではないけど、人生は一度!アツく生きる、誰よりも輝いている自分になる、その一つの手段が勉強会への参加だったり、就職、転職だと思います。若手理学療法士には、是非Assistで学んで貰いたいです。